燠火
別れ話は大学近くのファミレスで済ませた。
好きなひとができたの、りょう君が部活ばかりでかまってくれないから寂しかったのと、それはつまり浮気じゃないかという言葉は、彼女の頬をぼろぼろと流れる大粒の涙の前に、喉元でとまった。
ああなんてことだという焦りと、放っておいた罪悪感と、女は泣けばいいんだからずるいよなという邪推と、ごっちゃになった脳みそがどうにかひねり出したのは、「でも」という何の変哲もない一言だった。
そこから先は、何ひとつ特別なことのない、どこにでもあるような、別れ話だった。
週に三度、クラブ棟の隅の軽音部で下手くそなギターを弾く俺は、決して音楽に真剣ではなかった。
中学の頃、ちょっとかわいいクラスメイトが「ギターが弾けるひとが好き」だと言っていたから、その日の帰りになけなしの小遣いをはたいて、中古屋で、定番と書いてあるスコア集と一緒に買ったのがはじまりだった。
そのクラスメイトはもともとギターがうまいイケメンと付き合った。悔しくて、勘違いが恥ずかしくて、お前に好かれたくてやったんじゃないと、ごまかすように、不真面目に、時々、弾いた。
エレキの方が格好いいかなと、スクワイヤーに買い換えたのは高校三年の時だった。
大学に入っても、なんとなく、やめられなくて。
軽音部のガチな奴らとDQNな奴らの狭間の物陰に群れる、吹けば消えそうな地味な仲間と、週に三度、不真面目に弦を鳴らしながら、どうしようもないようなことを、ただ、だべっていた。それはそんな責められることだろうか。
「わたしより、部活の方がたいせつなの」と、彼女は訊く。
「そんなことないよ」と俺は引きつった声で応える。「えりの方がたいせつだよ。ギターは、そんなに真剣じゃない。弾けたらかっこういいかなと思っただけで……うまくならないけど、続いてるだけで」
「ほんとうに」と、彼女は訊く。
俺は、逃げきれるかも知れないと思った。だけど、えりにこんなことを言わせた、顔も知らない他の男の影がちらついて、まるで自分は悲劇の姫だと疑わないようなえりの涙に目がくらんだ。
それでも俺はうなずいた。「ほんとうに」
もしも彼女が許してくれたら、その時どうすればいいのだろうと思いながら。
姫の前にかしづいて、また付き合ってくださいと懇願するのは、なんとも実感のない想像だった。
えりは泣いている。ああ、この涙の前ではすべてが無力だ。
首を絞めてやりたいと、その激情を心に沈めて、俺は心配そうに彼女を覗きこむ。
彼女が、顔を上げた。
「うそよ。あなたは」嗚咽まじりの声。「真剣じゃないギターの方が、わたしよりたいせつなのよ。かっこういいからギターを弾くように、彼女がいた方がまわりからよく思われるから、わたしと付き合っているのよ」
「…………お前っ!」
声を上げずにはいられなかった。
驚いた店員を振り払うように、えりの手首を掴んで、会計は律儀に済ませて、店を飛び出した。
夜に出てからようやく「いたい」とえりが不満を言った。
逃げられたりしないかなと、思いながら手を放す。
彼女は「最低」と呟いて、ファミレスの扉を振り返って、黙った。
俺は口の中だけで「裏切り者」と囁いた。
帰りの電車に二人で乗った。これが最後だからと。
会話はなかった。別れ話はもう終わったのだ。
隣で、いつもより半歩くらい身を引いた距離で、彼女は両手でつり革にすがっている。指がしなやかに絡み合い、白いプラスチックに祈りを捧げているようだ。
かたたん、かたたん。
俺は二人の思い出を頭の中でぐるぐるさせて、近年リニューアルしてアシカが空を泳ぐようになった屋上の水族館とか、あの白くて華麗でチャチなお城だとかのことを考えていた。デートスポット。特別な場所。
ああ、なんてことだ。日常の記憶があまりにも少ない。俺だけが悪いわけではないはずなのに、なんだか恐ろしくうつろな気分だ。
かたたん、かたたん。
電車が揺れる。疲れた顔が窓に並んで映っている。どこかで誰かがため息をついた。
車掌の声が二人の間に突き刺さる。じきに駅につく。
一人暮らしの玄関は、真っ暗なまま俺を待っているだろう。
帰ったらきっと泣くんだろうな。情けないな。
浮気されるなんて最低だ。
いいや、浮気するなんて、裏切りだ。
――何がいけなかったんだよ。
かたたん、かたたん。
電車が駅につく。扉が開く。
俺はつり革から手を離す。
「俺さ……」
彼女はこちらを見もしないで、何かを祈り続けている。
「ギターもえりも、たぶん、好きじゃないわ」
そして電車を降りた。
未練がましく振り返ると、えりは目を見開いて、幽霊でも見るように俺を見ていた。
扉が閉まる。電車が動き出す。