燠火
さっちゃんが行方不明になったと聞いた時、私は喉元まで出かかった「やっぱり」という言葉を、危うく飲み下しそこねるところだった。
鍋をかき回しながらふと思い出したように言った母は、少しばかり心配そうな、けれどもさして関心のなさそうな、他人ごとそのものの声音で続けた。昔、あんた時どき一緒に遊んでいたよね。
「うん」私は食器棚から、底の深い、白くてつやつやしたシチュー皿を出しながら頷いた。そして銀色のアルミのスプーンを。木の匙に憧れたこともあったが、結局、洗い物が大変そうという夢のない理由で、叶えないままでいる。「小学生の頃はね。もう……四年……六年くらい、会ってないけど」
「そうだったかしら」
「うん」
クリームシチューが鍋の中で湯気をあげている。そばには固形ルーの空き箱が置いてある。台所は熱気で少し蒸している。少しだけ開いた窓から、短冊のように細く、夜の空気が通りすぎていく。
「変わった子だったね」と、また母が言った。
「うん」と私は頷いた。さっちゃんが私とよく一緒にいたのは三年生か四年生のころで、あの年ごろの子供たちは、みんな、どこかしら変わっていたような気がするけれど。だけど、さっちゃんは特に変わっていた。と、思う。
”ミエちゃんにだけおしえてあげる。
わたし、ほんとうは、とおい星からきたお姫さまなの。”
ひそひそと打ち明けられたその幼い声が急に耳元によみがえり、私はぞっとした。本当にあの子の声を覚えているはずもない。記憶がつくりだした幻聴に違いない。
「寒い」私は呟いた。
「暑いわよ」とコンロの近くで母は答えた。
さっちゃんは変わった子だった。
いま思えば、似たようなことを言う子は、どこの学校にも、もしかしたらどこの学年にも、ひとりやふたり、いるのかも知れない。
だけど、私が彼女を恐れたのは、そっと囁かれた言葉から滴り落ちた、信じられないほど深い暗闇のせいだった。あれは、子供が受け止めるには、あまりにも荷が重すぎた。
佐藤幸子というのが、さっちゃんの本当の名前だった。
いつもおなじ服を着ていて、時どき、すっぱいようなにおいがしたから、クラスの中で、誰からも距離を置かれていたと思う。思う、というのは、私は、そういった雰囲気に対して、ひどく察しが悪い子供だったからだ。ただ、特別に仲がいいわけではなかったし、用事もなかったから、自分から話しかけるようなことはなかった。だから、きっと、周りからみれば、私もあの子を無視していたいじめっこのひとりだっただろう。
壮大な開発計画の割に大して人口が集まらなかったベッドタウンという、中途半端に寂れた地区にある小学校は、一学年が二クラスしかないありさまで、こじんまりとしたクリーム色の校舎と、百メートル走のコースをまっすぐ引けるくらいの広さの校庭が、なんとも田舎的な場所だった。
裏には広い田んぼが広がっていて、どこかの学年で、苗を植える実習があり、穂を刈り取る実習があった。そのときは学校じゅうが泥だらけになり、粉だらけになった。
私達が二年生の時に、壁の塗り替えが始まったが、本校舎の片面が塗り終わったころに台風がきて工事が中断し、台風が去っても、秋になり冬になっても、少なくとも私が卒業するまでは、ついぞ再開しなかった。
中庭には鯉の池があった。誰が放したのか、いつの間にか、濁った水の中を立派な錦鯉が何匹かゆらゆら泳いでいたけれど、誰も何も言わなかった。周りの花壇は子どもたちに踏みし荒らされて、それでもしぶとく花を咲かせていた。雑草の蔓のささえにされた竹馬が、なかば錆びながら、空と屋上を見上げていた。
そういう学校だった。
私が住んでいたのは開発前からある古い住宅街で、登校するには小さな山をひとつ、越える必要があった。街灯の古い木の柱は朽ちて虫食いだらけで今にも倒れそうで、肝心の電球はジジと音を立てながら明滅している有様だった。そのかたわらの、子供の手首ほども茎が太いひまわりが、夏にはよっぽどあざやかに道を照らしていた。
さっちゃんは、よく、道端にある小屋の影にうずくまっていた。
どうも不気味な場所だった。恐らく、雑木林を整備するための器具を入れてあるのだろう古びた小屋と、狭い狭い畑が、通学路になっている細い道のかたわらに、木々の間に突然に、ぽつりと佇んでいたのだった。
「ほら、またいるよ佐藤さん。気味が悪いね」
と彼女を指さして、声をひそめもしなかったのは、よく一緒に帰っていた友達だった。
「聞こえるよ」と、私は答えた、と思う。言葉以上の意味などなかったつもりだったけど、友達は顔を歪めて、「だから何」と私を睨みつけ、早足でずんずん行ってしまった。私は、怒らせてしまったものは仕方がないから明日にでも謝ろうと、追いかけなかった。友達は曲がりくねった坂道の、私のいる場所を見下ろせるいちばん高いところでこちらを見下ろして、ふんと鼻を鳴らして、そのまま先へ行ってしまった。
暑かった記憶も、寒かった記憶もない。だけど、たぶん、これは夏のことだったような気がする。
「佐藤さん」
私があの子のもとへ行ったのは、たぶん、一緒に帰る相手が変わっても、ひとりでなければ別にいいだろうと思ってのことだったはずだ。この山道は誰かと一緒に通りなさいと、家でも、朝の会でも、帰りの会でも、木曜日の全校集会でも、くり返し言われていたから。
「いっしょに帰ろう」
言って覗きこんだとき、背中で、ランドセルの中身がごとんと移動したことはよく覚えている。おじぎをしすぎたようなとき、分厚い、端に皺のよった赤い革のランドセルは、鈍く、ごとんと鳴くのだった。
さっちゃんがうずくまって見ていたのは、小さな水たまりだった。
「何か、いるの」と私は聞いた。
「いないよ」と、さっちゃんは答えた。母が暑いと言ったのと似たような口調で。
だけど私は見た。水たまりの奥からこちらを見上げる、二つの目。
悲鳴を上げたかもしれない。正直なところ、よく覚えていない。だけど、決して、幻ではなかった。
次の日の朝、さっちゃんは何もなかったように席についていた。昨日けんかをした友達も、普通通りに話しかけてきたから、私は「ごめんね」と一言だけ謝った。友達は「今回は許してあげる」と得意気に言った。私は「ありがとう」と応えた。たぶん、本当はどうでもよかったのだと思う。
次の日も、さっちゃんはまたおなじ場所にいた。その次の日はいなかった、と思うが、記憶は曖昧だ。とにかく、何日か後、私はまた小屋の影にうずくまるさっちゃんに近づいた。
「佐藤さん」
さっちゃんは答えなかった。
「あの時、やっぱり、何かいたと思う」
「いないよ」と、さっちゃんは答えた。
「嘘つき」
「いないよ」
「私、見たよ」
「いないよ……!」
小声で私達は言い合った。やがて、さっちゃんが怒鳴るように叫んだ。それから、ひどく怯えた様子で、きょろきょろと周りを見渡した。私は誰かが聞いているのかと思って通学路の山道を見た。
誰もいなかった。下校時刻を少し過ぎて、ほとんどの生徒はもう帰ってしまったか、また校庭や教室で遊んでいるかしている時間帯だったのだろう。鬱蒼と茂る木々の影に、蝉の声ばかりが響いていた。
「……三浦さんは、どうしたの」
さっちゃんは言った。私はどう答えたのだっただろうか。どうして一人で歩いていたのか。きっと、またけんかをしたか、相手が風邪か何かで休んでいたか、どちらかだろう。どちらであっても大した違いはない。
いないよと、さっちゃんは繰り返した。空から降り注ぐ灼熱の光と、影から立ち上るひんやりとした空気の合間で、水たまりが、ぽちゃんと音を立てた。
水たまりは変わらずそこにあった。建物の影だから、蒸発せずに残っていたのかも知れないけれど、夏だというのに不自然に思えて、私は不気味さを感じずにはいられなかった。
「いま、何か跳ねた」
言うと、さっちゃんは弾かれたように水たまりを振り向いた。とうてい子供らしくない動揺にまなじりを震わせて、ほとんど放心するような沈黙のあと、彼女は「だめ」と呟いた。私にではなかった。波紋が残る水面に、言い聞かせるように。「だめ。だめだよ。絶対に……」
「佐藤さん?」
「連れて行っちゃだめ」
果たして、それらの言葉たちは、子供にありがちな妄想にすぎなかったのか――正直、今でもわからない。私は、おばけや神様や、そういう不思議なものを特別に信じるたちではない。けれど、何かの遊びだと思うには、彼女の声は真剣すぎた。
それとも狂気であったのか。あまり親に愛されていなかった、学校にも馴染めなかった、あの子の。
妄想でも、狂気でも、どちらでもよかった。どちらでもないよりは。
その時、私は確かに視線を感じた。
足元の小さな水たまり。ひんやりとした土の上にうずくまる、濁った泥水の奥から。誰かが、それとも何かが、ぞっとするような、ねばねばとした目で、私のことを見ているのを。
咄嗟に、私はさっちゃんの手首を掴んで走りだした。突然に引っ張られたさっちゃんが足をもつれさせかけたけれど、それも待たずに。さっちゃんからは相変わらずすっぱいにおいがしていた。むせ返るような夏の熱気。骨ばった手首を掴んで、私は焦げたアスファルトの上を走った。背中でランドセルがごとごと揺れていた。
「さっきのは、何」
山を抜けてから、荒い呼吸の合間に私はたずねた。心臓が激しく鳴っていた。
さっちゃんは今にも座り込みそうに、コンクリートの電信柱に寄りかかっていた。
「さっき、何が、いたの」
くり返してたずねると、さっちゃんは泣きそうな顔をした。
そして、たっぷり、きっと五分は経ってから、言った。
「私を、連れ戻しにきたの」
「どこへ?」
また長い沈黙がおりて、今度は答えは返ってこなかった。彼女は怯えた顔で、電信柱にしがみついていた。
その日から、私はさっちゃんと一緒に帰るようになった。どちらが誘ったのかは覚えていない。真夏のアスファルトの山道を、ほとんど無言のまま二人で歩いた。あの小屋の横を通る時、ときどき、ぴちゃぴちゃと水音がした。私は決してそちらを見なかった。びくと身をすくめるさっちゃんの細い手首を掴んで、「だいじょうぶ」と囁くことが常だった。
さっちゃん、と呼び始めたのもその頃だ。しばらく遅れて、さっちゃんも、私のことをミエちゃんと呼ぶようになった。
さっちゃんの手首はとても細かった。皮膚はかさかさしていた。夏でも長袖の、薄汚れた、伸びきった服を着ていた。その下に何を隠しているのか、私は聞かなかった。想像はできたし、学校でも噂はあった。私と一緒に山を越えて住宅地の入り口のT字路で別れた後、夕方まで家に帰らず公園にいることも知っていた。でも私は何も聞かなかった。
「ミエちゃんにだけおしえてあげる」
ある日、さっちゃんが言った。その時はもうすっかり秋になっていたはずだ。
山道の端の栗の木から落ちた毬を蹴りながら、「何を」と私はたずねた。
「わたし、ほんとうは、とおい星からきたお姫さまなの」
「……どんな星?」
嘘か、それとも本当かなんてどうでもよかった。本当でも嘘であっても、私にとっては大した違いはなかった。
子供の現実逃避と一蹴するには不気味なことが少しだけ起こっていて、彼女の声は絶望的だった。
何もない星だ、と、さっちゃんは言った。地球からはとても遠くて、別の太陽の傍にある、小さな星。その星の太陽はもう死んでゆきつつあって、少しずつ、少しずつ、熱をなくしていく。だからその星はとても寒く、暗く、ひとびとは身を寄せあって、かろうじて生きているのだと。
「他の星にも、王さまがいるんだね」
私がなんの気なしに言うと、さっちゃんの頬に朱が走った。
「そうよ。いるわ。王さまは、死んでいく太陽と戦いつづけたのよ。大きな火を焚いてみんなを暖めようとしたり、星を動かして太陽に近づける方法を探したりしたわ。それから、もっとたくさんのことを」
「それで、どうなったの」
「むりだった。どうしても、星はすくえない。王さまはついに諦めてしまった」
「……みんな、死んでしまったの?」
私は、さすがに無関心ではいられなくて、恐る恐るたずねた。
さっちゃんは、「そうよ」とうなずいた。
「ええ。王さまはくやしかった。星のほかのひとびとも、とてもくやしかった。そのせいで……おばけになってしまった」
「おばけ」
私は拍子抜けした。死んでいく太陽。暗く、こごえていく星。遠い遠い場所のつくりばなしが、おばけという言葉ひとつで、なんだか、手垢のついた、安っぽいものになってしまったように思えたのだ。
さっちゃんは言った。くやしくて、おばけになって、あきらめきれなかった。おばけの王さまは、おばけのお姫さまに言ったの。”わたしたちはみな死んでしまった。けれど、まだ死んでいない。わたしはここで王さまのしごとをしなければいけない。だから、代わりに、わたしたちが生まれ変わったら住む他の星を、探しにいってきてほしい”。
そこまで言われれば私にも察しがついた。さっちゃんは、そのお姫さまで、代わりの星を探しにきたのだろうと。
「わたしはそれで地球を見つけた。人間に生まれ変わって……」
でも。と、さっちゃんは言った。だんだん早口になっていき、聞き逃さないようにするのが大変だった。
「わたし、こわくなった。王さまは言うの。”まだ、星は見つからないのか”。”ここは暗い、寒い”。”はやく、その星を、持ってかえってこい”って。王さまは、もう、狂ってしまった! 悪いのは太陽なのに、言ってもわかってくれない。星を動かす方法なんてわからないのに。そのうち、何でもいいから持ってかえってこいって言うようになったわ。でなければ連れ帰るって。あの暗くて寒くて、おばけしかいない星に――わたし、最初は飴を送った。王さまは、もっと、もっとって言う。何をあげても満足してくれない」
さっちゃんはいままで何をあげたんだろう。次は、何を要求されているんだろう。
私はそれをたずねなかった。ただ、彼女を落ち着かせようと、いつものように手首を掴んだ。震えが、てのひらに伝わった。
その年の冬、さっちゃんのお母さんが行方不明になったと聞いた。もともと、さっちゃんのことを放って、派手な化粧で歩きまわっていることが多いひとだった。駅前の繁華街を、知らない男のひとと一緒に歩いているのを見たというひとがいたから、きっと駆け落ちしたのだろう。
そして冬休みが終わると、さっちゃんは引っ越して、転校してしまっていた。
低い振動音にまどろみをやぶられて、私はベッドの上で目を開けた。
”佐藤さんをおぼえてる?”と、昔の同級生からのメールだった。画面の端で、デジタル時計が深夜を示していた。
私は返信した。”もうずいぶんと会っていないよ”。
”となり町に住んでいたんだって、だから、わたしたちにも連絡がきたんだよ”と、スマートフォンのライトがちかちか告げる。
いつの間にか、窓の外からはくぐもった雨の音が聞こえていた。
ぴちゃん、と、水音が跳ねる。屋根のふちか庭木からしずくが滴ったのだろう。
私はスマートフォンを放り出して、また目を閉じた。
ぴちゃん、ぴちゃん。
水音が跳ねる。
まぶたの奥の暗闇で、あの日のさっちゃんが、俯いた髪の間から私を見ていた。